読書をしたら、「タイトル」と一言感想を書いてみよう
「先生の時代は良かったね。スマホなんてなかったんでしょ?」
教え子の中学生が、ふいにそんな言葉をこぼした。
「スマホがあるとさ、ついゲームとかしちゃうんだよ。やりたくて、どうしようもなくなっちゃうんだ」
「スマホがあるとさ、ついゲームとかしちゃうんだよ。やりたくて、どうしようもなくなっちゃうんだ」
画面の向こう側に吸い込まれそうな、焦燥と依存。どっぷりと現代の波に浸かった彼らなりに、この小さな機械に振り回される窮屈さを感じているのかもしれない。
「先生は、その頃何をしてたの?」
少年の純粋な問いに、私は記憶の引き出しをそっと開けた。
「……本を読んでいたよ」
そう答えてから、ふと思う。あの頃読んだ本のタイトルや、胸を突いた感情を、どこかに書き残しておけばよかった。後悔にも似たその思いを、私は目の前の彼に静かに伝えた。
「……本を読んでいたよ」
そう答えてから、ふと思う。あの頃読んだ本のタイトルや、胸を突いた感情を、どこかに書き残しておけばよかった。後悔にも似たその思いを、私は目の前の彼に静かに伝えた。
気づけば、私の意識は半世紀近く前――まだ少年だった頃の夏へと、一気に引き戻されていた。
夏休み明け。宿題の提出日で沸き立つ教室。
当時の私たちは、一冊の「課題図書」をクラス全員で回し読みしていた。二日ごとに次の番号の家へ届ける。本一冊すら満足に買えなかった、貧しくも懸命な時代のルールだ。
当時の私たちは、一冊の「課題図書」をクラス全員で回し読みしていた。二日ごとに次の番号の家へ届ける。本一冊すら満足に買えなかった、貧しくも懸命な時代のルールだ。
私の手元に回ってきたのは、『春駒のうた』という本だった。
けれど、私は結局、最後の一ページも開かないまま、次の誰かに本を渡してしまった。押し付けられた宿題への反発か、あるいは単なる気まぐれか。
けれど、私は結局、最後の一ページも開かないまま、次の誰かに本を渡してしまった。押し付けられた宿題への反発か、あるいは単なる気まぐれか。
いざ提出日。
「読んでいません」という勇気など、あの頃の私にはなかった。放課後、私は握りしめた小遣いで本屋を梯子し、図書館へも走った。けれど、季節外れの一冊はどこにも見当たらない。
「読んでいません」という勇気など、あの頃の私にはなかった。放課後、私は握りしめた小遣いで本屋を梯子し、図書館へも走った。けれど、季節外れの一冊はどこにも見当たらない。
(あらすじさえ、わからない……)
追い詰められた私は、記憶の片隅にある帯の挿絵だけを頼りに、でっち上げの感想文を書き殴った。時間ギリギリに学校へ駆け込み、教卓に置く。これで終わるはずだった。
ところが、翌日の国語の時間。
「それじゃあ、まずは――」
先生が指名したのは、あろうことか私だった。
「それじゃあ、まずは――」
先生が指名したのは、あろうことか私だった。
(絶望だ)
頭の中が真っ白になる。しかし、後には引けない。私は教壇に立つと、開き直ったかのように、自分の書いた「嘘」を高らかに読み上げた。クラスメイトたちの「本当の感想」とは似ても似つかない内容。それでも私は、堂々と読み切った。
なぜ、あそこまで頑なに嘘を突き通したのか。
理由は明白だ。先生の「げんこつ」が死ぬほど怖かったから。
理由は明白だ。先生の「げんこつ」が死ぬほど怖かったから。
理不尽な時代だった。頬杖をついたから。欠伸をしたから。そんな理由で、男子の頭には拳が容赦なく振り下ろされた。「あの子もやっていました」と反論しようものなら、「うるさい!」とさらに一発。それが当たり前の風景だった。
今は、なんて便利な世の中だろう。
読まなかった本のあらすじは、指先ひとつで調べられる。『春駒のうた』は、その後映画にもなったらしい。
読まなかった本のあらすじは、指先ひとつで調べられる。『春駒のうた』は、その後映画にもなったらしい。
あの頃、私に拳骨をくれた先生は、もうとっくに鬼籍に入られているだろうか。
便利になった今の空気を吸いながら、私はふと自分の頭をなでた。あの時の鈍い痛みだけが、今も鮮やかな記憶として、そこに居座っている。
便利になった今の空気を吸いながら、私はふと自分の頭をなでた。あの時の鈍い痛みだけが、今も鮮やかな記憶として、そこに居座っている。

